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講義:フィリピン編

Page history last edited by mariko iijima 15 years, 5 months ago

質問(1) フィリピンでの日本人は移民全体の何割だったのでしょうか。

ベンゲット道路労働者の資料を見てみると、日本人(20%)、続いてアメリカ(17%、白人・黒人を含む)、中国人(10%)、その他はフィリピン人となっています。というわけで、道路工事の移民労働者としては一番多かったわけですね。しかし、フィリピン人の全体の人口から見ると、日本人が移民する前からフィリピンに来ていた中国人や近隣諸国から移民のほうが多いと思います。それに関する資料は現在探しています。

 

質問(2) 1920年の日本政府による廃娼令(海外の売春禁止)と1956年の日本国内における売春禁止法との間が40年近く空いていますが、なぜでしょうか。

廃娼運動の発端は、19世紀末のヨーロッパで女性・少女の売買に関する批判が高まったことによるものです。1910年には、売春を禁止する国際条約が締結され、これを機にヨーロッパ諸国の植民地でも廃娼運動が広がっていきます。また、当時多くのからゆきさんを送り出していた日本も、日清・日露・第一次世界大戦の勝利を経て、国際的にも注目される国となっており、売春婦を海外に送り出すということは「恥」として受け止めるようになってきました。言い変えれば、ヨーロッパ諸国からの非難をかわすことと、日本の外交的な体面を保つために、1920年の廃娼令が制定されたといえるでしょう。

 一方で国内における売春防止法は、1956年に交付され、1958年に実施されます。つまり、日本政府は、日本人の買収行為は海外で禁止しておきながらも、日本国内や日本帝国の支配下にあった地域(満州や台湾など)では、1920年以降も公娼制度を認めていました。また、特に戦後にGHQ(進駐軍)が日本に上陸する際に、日本政府はR.A.A (Recreation and Amusement Association)、つまり慰安所(売春施設)を作ります。これは、一般女性が進駐軍の兵士によって襲われないようにするred-lineであったわけですが、ある意味、「必要悪」として売春制度が正当化がされます。さらに、進駐軍相手の売春行為は日本人のpure bloodを守る「愛国的行為」というように政府側は言っのけます。このようなこともあり、戦後も交渉制度が日本国内で残ったと考えられます。 

参考文献:

清水洋・平川均著『からゆきさんの経済進出:世界経済のなかのシンガポール―日本関係史』(コモンズ、1998年)pp 41-57

John Dower, Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II (The New Press, 1999) pp 123-132

 

 

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